落語「時そば」と投資の原点
十代目 柳家小三治
私は、高校生の頃から落語が好きで、落語研究会に入って自分でも高座に上がっていたぐらいです。でもその頃のお話をし始めると止まらなくなるので今日は止めておきます。
私の一番の贔屓は先年亡くなった柳家小三治師匠で、晩年まで律義に寄席に出続けていました。
有名な落語で「時そば」がありますが、この噺も小三治さんで以前聴いたことがあります。
そして今回のお題は「時そば」と私自身の「投資の原点」です。
きちんとオチが付くんでしょうか、しばらくお付き合いを願います。
時そば
まずは「時そば」という噺について若干のご説明を申し上げます。
深夜、男が通りすがりの屋台のそば屋を呼び止め、値段が十六文のそばを注文する。
男は看板を褒め、割られていない割り箸を褒め、更には器、鰹節を使った汁、麺の細さ、ちくわの厚さなどを次々にほめ上げる。
食べ終わっていざ支払いという時に、男は蕎麦屋の主人の手のひらに一文銭を一枚ずつテンポよく数えながら載せていく。
「一(ひい)、二(ふう)、三(みい)、四(よう)、五(いつ)、六(むう)、七(なな)、八(やあ)」
と数えたところで主人にこう尋ねる
「今何時(なんどき)でい?」
「へい、九(ここの)つでい」
と主人が応えると間髪入れずに
「十(とお)、十一、十二、十三、十四、十五、十六、御馳走様」
と数え上げ、すぐさま店を去る。
つまり、代金の一文をごまかしたのである。
この一部始終を陰で見ていたもうひとりの男。
その手口にえらく感心し、自分も同じことを翌日に試みようとする。
気が急いて早めに街に出た男がつかまえた屋台は昨日見たものとはまったく別の店。
箸は誰かが使ったらしい丸箸、器は欠け、汁は辛過ぎ、そばは伸び切って、ちくわは紛い物のちくわ麩と、ほめるところがひとつもない。そばを食い切ることができないまま例の勘定に取り掛かる。
男「一、二、……八、今何時でい」
主人「へい、四つでい」
男「五、六……」
男はまずいそばを食わされた上に勘定を四文も余計に取られてしまうのだった。
とこのようなあらすじです。
小三治師匠はマクラ(噺の本題に入る前の小話)が長いのが有名で、この時の話も記しておきたいところですが、それこそ本題から遠く離れてしまうので泣く泣く割愛します。
落語とhumour
この噺の主人公は、蕎麦屋にパアパア世辞を言った挙句に一文かすめてしまうのを見ていて自分も真似しようと試みる間抜けです。
落語には他人の真似をして失敗する滑稽を笑うネタが数多くありますが、よく考えてみると他人様が上手くやったと同じことを自分もやって損をした、などというのは、私達自身の周囲にも割りとよくあることです。
それはきっと人間の感情として極めて自然だからで、だからこそ慣れない世辞を言っては蕎麦屋にことごとく袖にされて困惑し、刻(時間)を間違えて(前の晩の時刻は九つ<今の午前0時から1時くらい>でしたから、八文まで数えて刻を訊き、蕎麦屋に九つと言わせて、十、十一といって一文かすめたのですが、気が急いている主人公は一刻早い四つ<今の午後10時から午前0時>に来てしまいます)損をする、という姿に自ずと笑みがこぼれてくるのだと思います。
屁理屈を重ねることを許されるならば、「時そば」で笑うということは、間の抜けた江戸っ子の姿を通して普遍的な人間の「愚かさ」を、したがって私達自身の中にある「愚かさ」を笑っているのと同じことです。
そして、この「自分自身を笑ってしまう」という行為こそが、本来の意味でのhumourに違いないと思うわけです。
富の源泉
ところで、前の晩に上手いこと一文かすめ取った男の利益とドジな主人公の損失の源泉は、それぞれが入った屋台の蕎麦屋の損失と利益の裏返しです。要するにお金の持ち手が変わっただけで、これら2件の取引関係に限って言えば世の中全体の富は少しも増えていません。
証券投資の世界は実体を伴わない虚業であるとか、株式投資はしょせん博打だとか、私がまだ若かった40年程前には割と当り前に口にされていたように思います。
果たしてそうでしょうか?
私は元々日本生命に入社したのですが、最初の配属先が株式部でした。
最初は株式投資の事務ばかりで、入社2年目に銘柄調査の仕事をさせてもらいました。
そうして3年目に今の当社の前身・ニッセイBOT投資顧問に出向となり株式投資を毎日の仕事として経験しました。貴重な経験でした。
そこで上司・先輩から教わったことが今でも自分の核になったと感謝しています。
証券投資の世界でも私は専ら国内株式の領域でしたが、最初に強調されたのは株式を買うということは会社そのものを買うということだ、それも明日明後日売り抜けようという投機ではない、会社の成長の果実を投資家として享受することが株式投資の目的なのだ、だから徹底的に投資先の会社を調べないといけない・・・・・・・・。
それは一文かすめるあのお噺と本質的に違います。えらく真面目な話なのです。
まだ若かった私は株式投資を博打にたとえる世間の目が歪んでいるのではないか、と思うようになりました。
出向先で受けた最初の研修で、本体の有価証券部門で経験を積んだベテランが(と言っても当時40歳前後ですから今の自分より20歳も若いのですが)ある会社の長期株価チャートと一株利益のグラフを重ねて見せ、株価が利益成長に沿って上昇していく図柄から株式投資の本質に目を開かせてくれました。
この先達はまた、アナリスト時代の経験を話されて、自動車工場を新設して四輪に本格参入していく頃の或るメーカーを調査した時、ここから先は自動車輸出が伸びる、国内の自動車市場も拡大基調にある、今は設備投資の償却負担が重くて利益が出にくいが、償却も進み生産台数が増加していくと加速度的に利益が出るようになる、投資すべきだ、との結論に至った、と実に静かに、しかし確固たる信念をもって語られたのでした。
そうなんです。株式には、証券には本来的に実体があるのです。リアルな経済活動の裏付けがあって、その実体を株価や金利の姿で映しているのだと思います。証券市場というのは実体経済を映す鏡であって、だから「株を買うのは会社を買うことだ」という結論に必然的に辿り着くという訳です。あらゆる派生商品も複雑な取引も実体経済の裏付けがなければ文字通りの「仮想」ですから、それこそ博打に過ぎません。
おしゃべりが過ぎて少し長くなりました。
あれ、今何どきだい?
【筆者紹介】
下口耕平:日本生命保険入社、株式部に配属後、ニッセイBOT投資顧問に出向、史上最高値を記録した頃の日本株運用を5年間経験。日本生命に帰任した後、ニッセイアセットマネジメントに復帰、以後現在まで年金クライアントサービス部門に所属。趣味はビートルズ、ブラームスから小唄まで志向性が支離滅裂な音楽と落語。
・当資料で、筆者の紹介のある記事においては、掲載されている感想や評価はあくまでも筆者自身のものであり、ニッセイアセットマネジメントのものではありませんが、ニッセイアセットマネジメントと筆者との間でこれらの表示に係る情報等のやり取りを直接的又は間接的に行っているため、実質的にはニッセイアセットマネジメントの広告(「不当景品類及び不当表示防止法」におけるニッセイアセットマネジメントの表示)等に該当する場合がございますので、ご留意願います。